【概要】 お釈迦様の在世当時の夏のある日、お釈迦様に会うために遠い町から旅に出た二人の修行者がいました。二人は道中、暑さと喉の渇きによって死にかけてしまいます。 そんな時に、古井戸の中にわずかに溜まった水を見つけました。しかし、そこには小さな魚がたくさんいて、二人が水を飲めば「生き物を殺してはならない」という戒律を破ることになってしまいます。 一人の修行者は、例え戒律を犯してでも仏様に会うという大きな目的を達成すべきだと言い、もう一人の修行者は、戒律を破ってまで仏様に会ってもしょうがないのだといいます。 水を飲まなければそこで死んでしまいます。飲めば戒律を破ることにはなりますが、命を保ち、無事に仏様に会いに行くことができます。 さあ、二人の修行者はどうなるのでしょうか。
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【本物の仏様の姿】(テキスト)
昔、お釈迦様が祇園精舎にいた時のことなんですが、そこから遠く離れたコーサラ国というところに二人の修行者がいたんです。
二人の修行者は生きているうちに是非お釈迦様に会いたいと、お釈迦様に会いに行くのですが、今とは違って電車もバスもない時代です。人も住めない荒野を歩いていかなければなりませんでした。
その頃の季節は夏で、道中の泉はすべて枯れていて、修行者たちは暑さと喉の渇きにたえられないほど苦しみました。
すると、幸運にも、古井戸にわずかばかりの水があります。二人はこれを見つけて喜んで飲もうとしますが、よく見ると水中には小さな魚がたくさんいて、二人が水を飲んでしまったらその魚を殺すことになってしまいます。
二人はお釈迦様の教えの「生き物を殺さない」という誓いを強く守っておりましたので、その水を飲むことができませんでした。
「ああ、せっかくこうしてお釈迦様にお目にかかりたいと、苦しい思いをしてここまで来たのに、この命も今日、ここで尽きてしまうのか」
と言って二人で嘆いていました。
しかし、修行者の一人が思い直し、
「私たちはこの水を飲んで命をつなぎ、仏様のところまで無事にたどり着き、拝まなければならない。そのためにはたとえこの小さな生き物を殺生しようともしょうがないではないか。私たちは大きな目的のためにこの命をつなぐのだ」
といいます。それを聞いたもう一人の修行者はいいます。
「いや、それは間違っている。生き物を殺さないという戒律は、仏様から与えられたものだ。生き物を殺して命をつなげ、仏様を拝んだとして、一体それが何になるだろうか。戒律を犯してまで生きるくらいなら死んだ方がマシではないか」
このように二人の意見は食い違います。
そして二人はここで、お互いの道を進むことになります。
一人は、意を決して水を飲み、なんとかお釈迦様のいる町までたどり着きました。
水を飲まなかったもう一人は、そこで倒れ、命が尽きてしまいました。
さあ、ここで皆さんもちょっと考えてみてください。
もし、自分だったら、水を飲みますか? 飲みませんか?
また、自分が出来る出来ないは関係ないとしたら、
どちらの修行僧の考え方を支持しますか?
この二人を見て、お釈迦様なら何と言うでしょうか。
それでは続きを話していきましょう。
水を飲み命をつないだ修行者は、
疲労困憊の中なんとかお釈迦様のところにたどり着きました。
そして、涙を流しながらお釈迦様に、こう伝えます。
「お釈迦様、私にはここまでの旅を共にする一人の連れがございました。しかし彼は、渇きと疲労によって途中で命を落としてしまいました。どうぞその彼のために、哀れみを与えてくださいませ」
お釈迦様は言います
「そうか、修行者よ。私はその連れをよく知っている。彼は戒めをよく守ったので、天に生まれ変わり、お前より先に私のもとに来ることができたのである」
続けていいます。
「修行者よ、お前は、仏のこの肉の身体を見に来たのか? やがては死によって消えてしまう、この無常の身体を見に来たのか。よいか修行者よ、戒律を守る日常の全ての行動の中にこそ、本物の仏の姿があるのだ。お前の連れの修行者はそのことを理解し実践した。そして、本物の仏に出会ったのである。このたわけものめ」
お釈迦様は、相手のためになると思えば、時には強い言葉を用いることもありました。
それからお釈迦様は、優しい言葉に変えてこう言いました。
「修行者よ、お前は私の身体ばかりを見て、私の教えをよく見ていないのだ。たとえ何千何万キロ離れていようとも、私の教えを守る時、お前は私に出会うのである」
そんな風にお釈迦様は伝えられました。
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そんなお話がお経の中には残されています。
最後に~日々の生活の中で神仏に向き合う
いかがだったでしょうか。
この話の中からは学ぶことがたくさんありますが、
一つは、私たちが本当に向き合わなければならないのは、
神社仏閣の神仏の像ではなく、
自分の内側の心だということです。
たとえどれだけ熱心に、
神社仏閣に行って手を合わせようとも、
日常生活の中で、愚痴を言ったり、怒りに身を任せていたのでは、
きっとお釈迦様に同じように言われてしまうはずです。
どこにも行かなくても、
私たちが自分の心と向き合い、
正しい生き方を守る時、
それは、本物の仏様と向き合っている時なのです。
今回は「本物の仏様の姿」というお話でした。
それではまた次回のお話でお会いしましょう。
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