【概要】 昔々、お釈迦様の在世当時、インドにはまだお釈迦様の教えが広まっていない国がありました。 その国では、国王の母親が重篤な病気にかかっており、あらゆる手を尽くして治療にあたりますが、数年たっても一向に快復しません。 そこで、国王は、名高い賢者たちを200人集め彼らを供養し、どうすれば母君が快復するかを尋ねました。 彼らは、ある方法をもって天に祈れば、お母様は必ず快復するといいます。それを聞いた国王は喜んで祭祀の準備をします。 それを知ったお釈迦様は、「愚かなことよ」と国王の行いを哀れみ、直接国王に会いに自ら出向きます。
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【種に応じた報いがある】(テキスト)
昔々お釈迦様の在世当時、
お釈迦様の教えがまだ広まっていない国がありました。
そこでは、私たちも一度は聞いたことがあるような昔の風習、
動物などを殺して生贄にするような祭祀が行われておりました。
ある時、その国の国王の母親が病気にかかり
重体となったので、
国中から様々な名医を呼び集めたり、
遠方まで薬を求めたり、
巫女を集めて祈願させたり、
あらゆる手を尽くして母親の快復を祈りました。
しかし、何年経っても国王の母の病気は一向によくなりません。
そこで、国王は200人のバラモンを招き、
彼らをもてなしてからこう伝えました。
「我が母君は長い間病に伏しており、あれこれと手を尽くしたが、今日まで一向に快復しない。何が原因なのか私にはまるで分からない。幸い、あなた達は多くの知恵を持ち、宇宙の道理を知り、星座のことにさえよく通じている賢者である。そこで、どうしてこのようになったのか、どうすれば治癒することができるのか、それを教えて欲しい」
バラモンたちはもったいぶって王に答えます。
「今、宇宙の道理を明らかにしますと。星座は乱れ、陰陽が整っていないことが原因です。そのせいでお母様の御病気が全快いたさないのでございます」
「ではどうすれば星座を正し、陰陽を整え母君の御病気を治すことができるのか?」
「王よ、それはバラモンの法によりまして、平地で汚れのない土地を選び、そこに祭壇を作り、色々な異なった百頭の家畜と一人の子供を殺して、これを供えて天に祀り、お母様とともに礼拝すればご病気は必ず全快するでしょう」
これを聞いた王は、バラモンの言う通り、人間や象、馬、牛、羊などを百頭揃えて城を出て東の方向に作った祭壇に引かせていきました。
屠殺場へ引かれていく馬や牛や羊の鳴き声は遠くまで響き、これを見送る人々の泣き悲しむ声は地獄絵図そのものでした。
お釈迦様は神通力を持って遠くからこの事をご覧になっていました。
そして、一人の人間を救うために、
数多くの罪なき生き物を殺す、
国王の愚かさを悲しまれ、
多くの人を従えてこの国にやってくるのです。
お釈迦様がちょうど東の門のところにさしかかられた時。
国王とばったり出会います。
国王は初めて見る本物の仏の光り輝くお姿にすっかり感動しています。
また、国王に付き従う人達もお釈迦様の姿を見て、
敬いの心を起こしました。
王は車から降り、蓋を取り、
手を合わせてお釈迦様を見ます。
そんな国王にお釈迦様が声をかけます。
「国王よどこへお出かけになるのですか?」
「はい、母君が久しく病気に悩まされておりまして、あらゆる手を尽くしましたが全く功を奏しません。しかし、ようやく今日その原因を知ることができましたので、これより祭祀を行い、母君の快復を願おうとしている所でございます」
お釈迦様は言います
「国王よ、まぁお聞きなさい。穀物を得るためには田畑を耕すものです。知恵を得るためには学問をするものです。富を得ようと思ったら仕事をするものです。人はそれぞれの行いに応じてその報いを得るのであります。悪い行いをして善い報いを受けることはないのです。一体そもそも、天にいる諸天は黄金の宮殿に住まい、衣食は自然に事足りているのに、どうして、国王のいま献ずる粗末な食べ物をもらって喜ぶことがあるでしょうか。
天を祀るのに、間違ったことをして正しい結果を求め、人や生き物をむやみに殺して一人の安らかさを求める。それでどうして善いむくいが得られるでしょうか。
もしも、長寿を願うなら、象や馬を供えて神を祀るよりも、ひとつの慈悲ある善行を行う方が良いのです」
お釈迦様のこの教えを聞き、
地獄にいるものたちまでも喜ぶほどであったといいます。
そして、病気の母親も、この教えを聞いて、心身ともに安らぎを覚え、
たちまちに全快したといいます。
ちなみに、国王に無慈悲なことを教えた二百のバラモンたちは、
その過ちを後悔して、直ちにお釈迦様の弟子になったのだそうです。
今回は「種に応じた報いがある」というお話でした。
最後に~お釈迦様の教えは宗教ではない
お釈迦様や仏教というと、なにやら神秘的で、にわかには信じがたい話ばかりをしているというイメージも世の中にはありますが、本当はそんなことはありません。
お釈迦様の言うことは、誰でもが理解し納得できる「道理」なのです。
ある時、お釈迦様の瞑想道場に、一人の男がやってきました。彼はお釈迦様に聞きます。
「私はヒンドゥ教徒で、他の神様を信じることが心苦しく思います。こんな私が瞑想をしても良いものでしょうか。」
お釈迦様は答えます。
「ご安心なさい。あなたはあなたの信じるものを信じていればよいのです。私たちが教えているのは心の苦しみを取り除く方法であって、あなたたちの神様を否定するものでありません。」
お釈迦様の教えというのは、それを信じる人だけに通じる信じがたい話ではなく、心をコントロールする「技」の話しなのです。
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